修験道という宗教

仏教
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私の宗教は修験道です。
今回は精神のお話から少し離れて、私の自己紹介も兼ねて当山派修験道のお話をさせていただきます。

修験道と言う宗教

修験道の開祖は役小角(えんのおづぬ)またの名を役行者(えんのぎょうじゃ)、諡号を神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)と言い、山岳で修行する宗教です。
日本独自の宗教ですが、役行者は飛鳥仏教の流れを汲む行者ですので広義では仏教の一派となり、宗教としては日本最古の宗教の一つと言えます。
役行者が修行をしていた奈良の大峯山、葛城山を中心に山岳修行をしますが時代の変遷とともに各地の山々でも修験道は盛んに修行されてきました。
私の住む関東地域でも埼玉県の秩父エリアは盛んで日本三大曳山祭りである秩父夜祭りのご本尊は、修験道で信仰される蔵王権現です。

当山派と本山派

修験道は大きくは2つの系統が有り当山派と本山派とあります。
当山派は真言宗系、本山派は天台寺門宗系の密教で統括されています。
これは自称修験者が多くなり現代で言えば霊感商法のような怪しくいかがわしい事をする輩が増えたために三宝院門跡と聖護院門跡を法頭として身分を明らかにするような制度が取られたという歴史があります。
真言宗醍醐派の三宝院門跡が当山派、天台寺門宗の聖護院門跡が本山派と二系統の修験道になり現在に至っています。
本山派の聖護院門跡は現在では天台寺門宗から独立して本山修験宗となっています。
当山派の真言宗醍醐派はいわゆる弘法大師の教えである真言宗とは別に当山派修験道の教えを継承しています。

当山派祖聖宝理源大師

前述の通り天台寺門宗系の本山派と真言宗系の当山派はそれぞれの宗教として発展していますが当山派の派祖、聖宝(しょうぼう)諡号は理源大師(りげんだいし)の中興の功績があって現在の修験道はあると言って良いでしょう。
密教の世界では血脈(けちみゃく)と言って師匠から弟子に伝えていく系譜がありますが聖宝理源大師は弘法大師の孫弟子となります。
その聖宝理源大師は真言宗の行者であったとともに修験者としての顔もあります。
廃れていた大峯山での修行を復興させ、修験道の修行法、恵印七壇法(えいんしちだんぽう)を確立しました。
密教僧の資格を得る修行として加行(けぎょう)がありますが、いわゆる真言宗の密教では四度加行(しどけぎょう)は有名、それに当たる当山派の加行は恵印七壇法となります。

最勝恵印三昧耶法 恵印七壇法

当山派の秘法と呼ばれる最勝恵印三昧耶法、通称恵印七壇法ですが、これは聖宝理源大師の神変大菩薩へのオマージュと言った内容です。
神変大菩薩が神仏に祈る事によって悟りに至った精神の変遷を弘法大師以降の我が国の密教で焼き直した修行と言えます。
神変大菩薩が修行中、弁財天、地蔵菩薩、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩、が順番に現れましたが自身の崇拝するご本尊としては足りないと思い修業を続けていたところ蔵王権現が現れて天にのぼって行く蔵王権現を半ば引きずり降ろして感得したとの故事がありますが、私はこれと似たような精神の変遷が有ったことを覚えています。
七壇法の七は七尊であり、弁財天、深沙大王、金剛童子、愛染明王、不動明王、龍樹菩薩、大日如来。
その七尊を十八道と呼ばれるいわゆる密教の修行法で修行し、さらに不動明王の護摩(ごま)を修行します。
護摩について言えばいわゆる四度加行の護摩とは別な観念で構成されています。
その後、恵印灌頂(かんじょう)入檀となります。
最勝とは大日如来のこと、つまり大日如来を本尊とする密教の一派として当山派修験道は十全宗教として確立しています。
私は護摩で不動明王と一体となった感覚を得ていますが、人身御供(ひとみごくう)の意味がわかったことは今でも鮮明に思い出されます。
今風に言えば精神構築メソッドなのかもしれませんが、以降不安と言う感覚が一切ありません。
そして不安消除のヒントをどのように伝えるか考えた末に精神疾患の平癒を利他行として行う事を人生でするべきことと現在に至っています。

在家の宗教

修験道は役行者に習って在家主義、いわゆるお坊さんのようにお寺にこもっているのではなく半僧半俗と言うスタイルを取ります。
普段は一般社会で俗人として生活をし、修行は僧侶として修行します。
私の場合ですが普段は普通に働き、師匠のお寺でご祈祷お祓いもします、自己の修行として山の修行や滝行をして、縁あったからの紹介で様々な問題の相談や宗教でしか解決できないような問題についてはご祈祷やご供養もします。
しかし祈って解決する問題ではない事のほうが昨今は多いので労働基準監督署や弁護士会、役所の福祉課などに一緒に赴くことも多いです。
大乗仏教は菩薩行(ぼさつぎょう)と言いますが利他つまり自分のみならず他人に利がある修行をしなければ先に進まない教えです。
それは人助けをして他人から褒められようとか、心理的に人の役に立っていなければ己を保てないと言った劣等感から来るものでは無く、あくまでも自己の修行を進める為であり言わば受け手側と行者とはウィンウィンの関係性を保てる修行です。
そういった意味で市井に身を置きながらの行道は宗教的に理にかなった形態といえましょう。

当山派修験道を目指す方々へ

修験者は仏教の諸師より軽んじられる事が多いですし、何しろ怪しまれる(笑)
止めておきなさいと言いたいところですが、宗教を極めるには良い宗教です。
ただし、何の道でもそうでしょうけれども簡単なものではありません。
私が師僧に弟子入りした時は8人同時期に入門しましたが二年ほどで同期はいなくなり私一人になりました。
そして本山の修行では修験者になる最初の儀式である得度が当時120人くらいいました。
そこから三年後の恵印灌頂入檀は五人でした。
私は特別な人間だとも思いませんが様々な障害があってそれを乗り越える部分は多かったと記憶しています。
ふるい落としにかけられるようにどんどん人がいなくなっていく、しがみついて残るのに必死だった数年間、それは私の人生を変えたのは言うまでも有りません。
その覚悟があればこの道を歩むことをお勧めいたします。

最後に一言

前述しましたが私は特別な人間では有りません。
しかしながら修行を通じて神仏に与えられたスキルはあります。
イメージとしてはちょっと特異な個性を磨いてもらったかなと言ったところです。
自己評価としてはかろうじて社会に役に立つ人間かな?(笑)
誰しもそういったものは持っているものですね、私はそれをこの宗教で知った次第です。
また修験道については記事にする予定です。

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